明治時代中期、英国人青年画家ランダーは、
道さえ通じていない十勝の開拓地で、流暢な英語を話す女性に驚いた。
その人の名は、渡辺(わたなべ)カネ。
横浜のキリスト教系女学校を出て母校の教師をしていた彼女が、
なぜ、開拓者になったのか。
十勝開拓の祖と称される晩成社(ばんせいしゃ)を、後世にどう伝えたのか。
ひたむきに生きた女性の生涯から、十勝が見えてくる。
文:北室かず子/写真:田渕立幸

移住を条件とする結婚
港ヨコハマの中心、元町や中華街の最寄り駅であるJR石川町駅の朝は、女子校生であふれる。この駅に近い高台の山手地区は、幕末の開港以来、外国人が多く居住した界隈で、キリスト教系の女子中学・高校がいくつもあるからだ。渡辺カネの母校・共立女学校を前身とする横浜共立学園も、長い歴史を刻んできた。「ひとりの人間を無条件に尊重し愛する」というキリスト教精神に基づいて、3人の女性宣教師が女子教育機関を設立したのは明治4年(1871)のこと。廃藩置県が断行され、国の姿がガラリと音を立てて変わった年であった。
カネは、安政6年(1859)江戸に生まれた。父の鈴木親長(すずき ちかなが)は信州の上田藩で重職を務めていた。しかし明治の世になって東京での事業に失敗。横浜でキリスト教の伝道活動に携わる。カネがキリスト教の洗礼を受けたのは明治9年(1876)のこと。北海道では札幌農学校が開校した年である。
カネは16歳で共立女学校に入学。同校の第1回卒業生として英学部を終え、皇漢学部に入り、卒業後は母校の教師となった。寄宿舎の舎監も務めていた。文明開化の窓、横浜の開放的な空気の中で、カネの可能性は無限に広がっていた。

そんなカネと北海道開拓の接点はどこにあったのか。
現在の静岡県松崎町(まつざきちょう)である大沢村(おおさわむら)の豪農、依田(よだ)家の三男・勉三(べんぞう)は、慶應義塾を経て、スコットランド出身の宣教師が開いた英学塾に通った。ここで出会ったのが尾張徳川家の元家臣、渡辺勝(わたなべ まさる)だ。その後、勉三は兄が開いた学校で教鞭をとり、渡辺にもこの学校の教師への就任を請うた。
帯広百年記念館の学芸員、大和田努(おおわだ つとむ)さんはこう語る。「依田家は養蚕、海運など幅広くビジネスを行い、県会議員も輩出した地域のリーダーでした」。
家督を継ぐのは兄なので、勉三の周囲で北海道開拓の構想が固まっていったと思われる。
渡辺は上京の折にかつて神学校で共に学んだ鈴木銃太郎(すずき じゅうたろう)に会い、北海道移住のあらましを語った。銃太郎はカネの兄である。ここでカネと渡辺、カネと北海道の接点ができた。
明治15年(1882)、依田勉三が発起人惣代、渡辺勝と鈴木銃太郎が幹部となって晩成社が結成された。北海道の開墾、耕作、牧畜、造林などを目的にする会社である。まず勉三と銃太郎が渡道し、オベリベリと呼ばれていた現・帯広市を予定地に決めた。


カネの父、親長も開拓団に加わることになった。渡辺も鈴木父子も、言うなれば没落士族。生きるために新天地に賭ける必然があった。しかも渡辺は移住を理由に婚約を破棄され傷心の中にあったらしい。
そこで、渡辺の伴侶にカネはどうかと、移住を前提とした縁談が持ち上がった。カネが渡道しなければならない理由はないだろうに……。
だが話はとんとん拍子に進み、明治16年(1883)、渡辺勝とカネは共立女学校で結婚式を挙げる。家長である父の勧める縁談であり、カネの中に渡辺への思慕も湧いていたのだろうが、カネが結婚を受け入れた理由は、それだけだろうか。女学校の女性宣教師と自らを重ねた面もあるのではないか。極東の島国に女子教育の光を点すため、不遇な子らを救うため、万里の波涛を越えてきた恩師の姿……。ミッション、使命に生きるという言葉が、カネと重なる。

ところで移住を前に、勉三は写真を撮っている。大和田さんいわく「撮影されたのは北海道ではなく、伊豆か横浜です。“こんなみすぼらしい格好になっても戻らないぞ”という決意の表明とされています」。勉三のアイデアには感心するが、開拓の辛苦を知らないからこそできたパフォーマンスという評もある。

自宅で読み書きを教える
明治16年(1883)5月、移民団13戸27名がオベリベリに移住した。
晩成社の開拓事業は困難を極めた。移住早々、空を覆うほどのトノサマバッタの大群が襲来した。人さし指ほどの小さな悪魔が、作物も雑草も瞬く間に食い尽くし、地上の緑を消し去った。さらに野火、干ばつ、冷害など、次々に苦難が襲いかかった。
カネは乏しい食料や物資をやりくりしながら2男4女を育てた。それは横浜では想像もできない苦労だっただろう。酒に溺れがちな夫を支えて家庭を営むこと自体が、己との闘いだったのではなかろうか。
そんな中でもカネは、自宅に晩成社の子弟やアイヌ民族の子を集めて読み書きを教えた。これは後に晩成夜学校と呼ばれた。農作業や家事から解放されるのは、夜のつかの間の時間しかなかったからだろう。アイヌの人々の相談相手にもなった。母校の女性宣教師が、夜の空き時間に希望者に英語を教えていた姿と重なる。
こうしたことからカネは「帯広教育の母」、「帯広開拓の母」、と称えられてきた。それに対して大和田さんは「もちろん間違いではないのですが、カネが生きたリアルタイムの資料から慎重に解き明かす姿勢が大事だと思います」と言う。なぜなら後世の表現は、その時代が好む像によって変わるから。


カネはどんな人だったのか。カネの人物像にもっと深く触れてみたい。【中編】では、カネの知性と品格に驚嘆した英国人青年画家の話、カネに届いた手紙や日記をもとに、カネに迫ってみよう。
Information
帯広百年記念館
| 住所 | 帯広市緑ヶ丘2 Google Map |
|---|---|
| 電話番号 | 0155-24-5352 |
| 開館時間 | 9:00~17:00(入場は16:30まで) |
| 休館日 | 月曜(祝日の場合は開館)、祝日の翌日(土曜日曜は開館)、年末年始(12月29日~1月3日) |
| 入館料 | 一般380円、高校生・65歳以上190円 |
| アクセス | 帯広駅より約2㎞、拓殖バス「緑ヶ丘6丁目」下車・徒歩約7分、十勝バス「春駒通12条」下車・徒歩約8分 |
| 関連リンク | https://museum-obihiro.jp/occm/ |
※情報は取材時のものです。最新情報は各公式サイト等をご確認ください。


