パウダースノーを求めて世界中から人々がやってくるニセコ。
始まりは、明治時代、オーストリア=ハンガリー帝国のレルヒ中佐が率いる、
蝦夷富士(羊蹄山)スキー登山だ。
これに触発され、東北帝国大学農科大学(現・北海道大学)と小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)の
学生たちがスキーで山々に分け入った。
いつの世も、白銀への旅はときめきに満ちている。
ニセコの山と旅の歴史をひもといてみよう。
文:北室かず子/写真:田渕立幸

倶知安にある、いにしえの駅
明治45年(1912)4月、旭川駅から鉄道で倶知安駅に着き、蝦夷富士に挑んだレルヒ中佐。その後、ニセコのスキーは、まさに蝦夷富士のように、裾野を広げていった。
倶知安風土館の前庭には、SLの車輪がオブジェのようにたたずんでいる。この地の歴史が鉄道と深く関わっていることを物語るかのように。2階に上がると、「倶知安と鉄道」という展示室がある。駅名標、木製ベンチ、旅客運賃表、ダルマストーブ……。初めて来ても懐かしさと旅情を感じずにはいられない。スキーの先駆者たちも、ダルマストーブの上で鉄瓶の湯が沸く音を聞きながら、列車を待ったことだろう。


コラー先生と学生たち
実はレルヒよりも前に、スキーを伝えた人物がいる。東北帝国大学農科大学(現・北海道大学、以下北大)の予科ドイツ語講師、ハンス・コラーだ。スイス出身のコラーはお国自慢として学生たちにスキーを語り、故国から取り寄せたスキーと教則本が明治42年(1909)に札幌に届いたとされる。しかしコラーはスキーをしたことがなく、学生は手さぐりでスキーの世界に入るしかなかった。学生のこんな述懐が残っている。「初めてスキーを見た時には、こんなベラ棒に長い物を履いて、どうして歩けやうと云ふ考が起つた。其後好奇心からスキーをやつて見たくて堪らなくなつた。明治四十四年二月、有志數名、コラー先生のスキーを見本として南一條の馬橇(ばそり)屋でスキーを製作して、日曜日毎に三角山へ滑りに行つた。當時は山の頂上から真直に下降すのみで滑走の方法等に到つては自得するより外なかった。尤もコラー先生が書籍について説明してくださつたが、實地を見たこともないし、又外國の言なので、よく了解することが出來なかつた」。(大正2年(1913)3月20日発行「文武會會報 スキー部報告」、『北海道大学スキー部100年・山スキー部50年記念誌』所収)
そんな時、スキーを実地で学べる講習会を開いたのが、札幌の月寒第25連隊に所属する三瓶勝美(さんべ かつみ)らだった。三瓶らは旭川の第七師団で行われたレルヒの講習を受けていたのだ。
月寒連隊での講習会には軍人約40人、北大の学生6名、札幌中学校(現・北海道札幌南高等学校)や北海中学校(現・北海高等学校)の教員が参加した。彼らは乾いた砂が水を吸い込むように、スキー術を吸収したことだろう。中でも北大の6人の胸には、スキー部を創るという熱望が湧き上がった。
6人のうちの1人、稲田昌植(いなだ まさたね)は、「學校當局やら學生にも未だ了解される事も薄かったので、當初は仲々困難らしく見えたのであるがスキーの繪葉書數葉を張り付けた趣旨書を持廻つて遂に成規の賛成者を得て文武會に正式に書類を呈出し、北國の獨特のスポーツであると云ふ點で了解を得て遂に四十五年度から文武會スキー部の存在を見る事となったのである」と、記している(大正15年(1926)12月10日発行『北大スキー部十五周年記念號』)。ちなみに稲田は後年、全日本スキー連盟会長となった。

スキー史すなわち登山史
北大山スキー部OBで(一社)北海道自然保護協会会長の在田一則(ありた かずのり)さんは「北海道での登山は、山々は半年以上雪に覆われる雪国という特性と北海道には本州に見られるようなアルパイン的山岳がなく、また森林に覆われ登山道もほとんどなかったということもあり、スキーを使った冬山登山から始まったと言える」と記している(『北海道大学スキー部100年・山スキー部50年記念誌』)。なるほど、スキーの始まりは、北海道の登山史を開くできごとでもあったのだ。
学生たちは明治45年(1912)6月にスキー部創立を決め、9月に大学から承認された。日本最古の大学スキー部の誕生である。6月と9月はわずか3か月の違いだが、6月なら明治時代の創部、9月なら大正時代の創部となる。在田さんいわく「考えようによっては、その違いは大きい」。彼らの若い肉体と頭脳は、北海道の冬山に次々と初登頂していく。蝦夷富士の冬季登頂は大正6年(1917)3月であった。
北大と共にスキーの扉を開いたのが、明治44年(1911)に開校した小樽高等商業学校(現・小樽商科大学)だった。初代校長・渡辺龍聖(わたなべ りょうせい)は、雪国の学生が心身を育み鍛えるために、スキーの可能性に着目した。そして、翌年2月には講師の苫米地英俊(とまべち ひでとし)を新潟県の高田へ派遣。苫米地は高田から3台のスキーを持ち帰り、大正元年(1912)10月にスキー部が誕生した。
地元に広がるスキー
ニセコがスキーの聖地となるきっかけは、彼ら学生のスキー合宿だった。その経緯は、谷口雅春(たにぐち まさはる)氏が取材・執筆した『ニセコパウダーヒストリー』(ひらふスキー場発達史刊行委員会)に詳しい。
北大スキー部は大正8年(1919)からニセコ合宿を始める。それまで手稲や小樽で合宿を行っていたが、ニセコに定めたのは、ニセコアンヌプリをめざしながら8合目で断念し、青山温泉(現・昆布温泉付近、蘭越町)に下りた際のこと。すばらしい山々に抱かれた地を拠点にしたのだ。
なお、北大スキー部はスキーの多様化とともに、山々を自由に滑り、さらなる山岳の高みをめざす山班(山党)と、競技スキーを究める競技班(畑党)として活動してきたが、昭和38年(1963)にともにスキー部の伝統を引き継いで、山スキー部と競技スキー部となった。


小樽高等商業学校も大正10年(1921)の暮れからニセコ合宿を始める。定宿は宮川温泉(後の鯉川温泉)だった。練習はチセヌプリ山頂に向かって左斜面だった。
両校の練習フィールドは、それぞれ北大スロープ、高商スロープと倶知安の人に呼ばれた。そして学生さんの刺激を受けて、地元の人々もスキーを自作して滑るようになる。
レルヒがスキー練習を公開した小黒山では、スキー大会も始まった。当時のルールは一本杖で一番長く滑った者が優勝というもの。北海道庁立倶知安中学校(現・北海道倶知安高等学校)が開校し、スキー部が設けられる。まちの有志も倶知安スキー倶楽部をつくり、大仏寺の横のスロープが使われた。ここは現在の旭ヶ丘スキー場である。
大正12年(1923)には第1回全日本スキー選手権が小樽で開かれた。この時、東倶知安村(現・京極町)の芳賀藤左衛門(はが とうざえもん)は、自作のスキーを履いて入賞(5位)した。その性能の高さが注目を集め、北大スキー部から製作を依頼される。これが北海道を代表するスキーメーカー、芳賀スキー(後にハガスキー)の誕生である。日本選手2度目の冬季オリンピック出場となった第3回冬季大会(レークプラシッド、1932年)にも芳賀スキーが持ち込まれた。この大会で、赤井川村出身の安達五郎(あだち ごろう)はジャンプで8位となり、日本は世界をとらえたのだった。
昭和3年(1928)は記念すべき年だった。1月、倶知安中学校と倶知安スキー倶楽部がワイスホルン、ニセコアンヌプリに登頂。一方、北大は大鰐(おおわに、青森県)で開かれた第1回全日本学生スキー選手権大会で総合優勝を遂げる。2月、サンモリッツで第2回冬季オリンピックが開催され、日本が初参加する。同月秩父宮が第七師団や開拓地の視察のために来道し、大野精七(おおの せいしち)教授のもと北大スキー部の案内によって札幌の三角山や手稲山でスキーをし、3月にはニセコアンヌプリ、チセヌプリへスキー登山を行った。秩父宮のニセコ山行によって、レルヒが残した「東洋のサンモリッツ」というニセコの代名詞は、強固なものになったのである。
昭和10年(1935)に倶知安では初の、全日本公式大会の地方予選が開かれた。その運営は、倶知安の町の特性を物語っていると『ニセコパウダーヒストリー』は指摘する。大会役員の大部分が後志支庁、営林署、国鉄の職員、小中学校の教員だったのだ。「大会運営には、農業と鉄道をベースに官公庁が集積したまちならではの人材がそろっていたのです」(同書)。
鉄道省(後の国鉄)の札幌鉄道局は、昭和12年(1937)のシーズンに向け、五色(ごしき)温泉に、ニセコ山の家を開設した。3年後の冬季オリンピック札幌開催が決まっており、時まさにウインタースポーツへの憧れが大きく膨らんでいた。しかし時代は戦争に向かい、政府は札幌五輪の開催を返上してしまう。日中戦争から太平洋戦争へ。暗く苦しい時代が続く。

駅から山へ
長い闇を抜け、戦後、再び、ニセコの白銀にシュプールが描かれる日々が来る。ハガスキー創業家の芳賀重信さんは、1950年代前半のニセコへの旅をこう振り返っている。「札幌から汽車で昆布駅か狩太(かりぶと)駅(現・ニセコ駅)へ。そこからスキーで3時間ちょっとで五色温泉。そこからチセヌプリやイワオヌプリ、アンヌプリと日によってコースは違いますが一帯を楽しむ。(中略)アンヌプリをひらふ側に滑り降り、山田温泉を楽しんで比羅夫駅から帰る、そんな日もありました」(『ニセコパウダーヒストリー』所収)。

ニセコ町にある有島記念館の学芸員、伊藤大介(いとう だいすけ)さんいわく、「当時のスキーは、山スキー。今で言うバックカントリーだけでした。しかも倶知安駅、比羅夫駅、狩太駅、昆布駅から歩いて山へ入っていったのです。アンヌプリへは比羅夫駅から、チセヌプリへは狩太駅からという具合です。当時の鉄道省や、ニセコエリアのリーフレットを見ると、各駅から山へのアクセスが書かれています。やがて駅から夏季は登山バスが出るようになりますが、基本的に駅から歩くことも登山の一環だったのです」。




昭和35年(1960)の北大ニセコ合宿について、こんな文章がある(『北海道大学スキー部100年・山スキー部50年記念誌』)。
12月22日 堅い雪をきしませて、薄明るくなった校門を出る。途中で参加する者、先の駅から乗る者などのため、札幌では60人くらいだったが大きい荷物とスキーを担いだ60人というのはちょっとした壮観である。特別車両を1つくっつけてもらい、どうやら全部収まったようだ。6:55 札幌駅を出る。写真機を持ち出したり、地図とコースの検討、先輩から伝わっている話などが出るうちに、11:05昆布駅着。
この日はたまたまスキーの大会があって昆布駅から青山温泉へのバスが出たが、帰りは昆布駅まで約4㎞をスキーで下っている。

在田さんは昭和41年の合宿を振り返ってこう語る。「当時は札幌からSLで向かいました。ニセコが近づくと線路の両側の雪がどんどん高くなってワクワクしましたね。昆布駅からはスキーを肩に担ぐ人、シールを付けて履いて登る人とさまざま。合宿の参加者は一般市民も含めて多い時は約100人にも上りました。ニセコの山々は火山ですから木がないところが広く、その上、日本海からの水蒸気が山に当たって良質のパウダースノーを大量に降らせます。本州から合宿に参加した人たちを通して、ニセコの山スキーのすばらしさが道外にも知られていったのです」。


自分自身とスキー板だけを頼りに、大自然に包まれる開放感。誰も踏み入れていない新雪を、雪煙を上げながら滑り降りる爽快感。やがてゲレンデが整備され、リフトが設置されると、スキーはより多くの人々に広がり、白銀への旅もいっそうスピーディに、洗練されていくのだった。

Information
倶知安風土館
| 住所 | 虻田郡倶知安町北6条東7丁目3 Google Map |
|---|---|
| 電話番号 | 0136-22-6631 |
| 開館時間 | 9:00~17:00(入館は16:30まで) |
| 休館日 | 火曜(祝日の場合は翌平日)、年末年始(12月29日~1月3日)、臨時休館あり |
| 無料入館日 | 7月17日、11月3日 |
| 入館料 | 一般200円、小川原脩記念美術館共通券500円、年間パスポート500円、高校生以下および小川原脩記念美術館観覧者は無料 |
| アクセス | 倶知安駅から徒歩約30分、倶知安駅から まちなか循環バス「じゃがりん号」東西ルートで約25分(便により所要時間は異なります)、道南バス「白樺団地」停留所から徒歩約10分 |
| 関連リンク | https://www.town.kutchan.hokkaido.jp/culture-sports/kucchan-huudokan/ |
※情報は取材時のものです。最新情報は各公式サイト等をご確認ください。
Information
有島記念館
| 住所 | 虻田郡ニセコ町字有島57 Google Map |
|---|---|
| 電話番号 | 0136-44-3245 |
| 開館時間 | 10:00~16:30(入館は16:00まで) |
| 休館日 | 月曜・第1・3・5火曜(祝日の場合は開館)、臨時休館あり(令和7年11月は第2・4火曜も休館)、年末年始(12月29日~1月5日) |
| 入館料 | 一般500円、高校生以下および65歳以上のニセコ町民は無料、年間パスポート800円 |
| アクセス | ニセコ駅より徒歩約30分、倶知安駅から道南バス「有島記念館前」停留所から徒歩約5分 |
| 関連リンク | https://www.town.niseko.lg.jp/arishima_museum/ |
※情報は取材時のものです。最新情報は各公式サイト等をご確認ください。